偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]デンマークの哲学者 キルケゴール(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
愛情を、自分だけに注いで生きていく人間は、『自分本位』だ。しかし、『他人本位』に気持ちが偏り過ぎてもいけない。なぜなら、他人本位にはなれないからだ。つまりキルケゴールの言葉は深い。
隣人を愛するとき、そこには何らかの思惑があったはずだ。別に、口にして言う必要はないだろう。『隣人を愛しています』などと。気づいたら仲が良くなっている等の場合に、わざわざこういう言い回しはしない。そこにはどこかこう、『愛さなければならない』というか、『愛すべきだ』というか、そういう『義務』のような臭いが、わずかでも漂ってくる。
自分の身体を洗う時、自分の為に食事を摂る時、それらと同じように、隣人を思いやることが出来ているだろうか。出来ていないなら、そこにあるのは何だろうか。二つの違いは何だろうか。人の身体を、自分の身体の様に思うことは出来ない。だとしたら、そこには間違いなく、『差』が確実にある。
だとしたら、『相手を思った愛情』の中に、『わずかでも自分のエゴ』が混入していることになる。つまり、『相手の為、相手の為』と念仏を唱えても、そこに純粋さはなく、混沌としている。自分が排泄した後の身体を拭くときと、人のそれを拭くときに、少しでも『差』を感じるのであれば、結局それは他人本位ではない。だとしたら、『自分自身を愛さなければならない』というのは、『よく考えてみろ』という警鐘である。
そもそも自分を愛していなければ、排泄した後の身体を拭くことは出来ないのだ。それをすることに何ら抵抗がない。それが純粋な愛である。隣人を愛している時、自分自身も愛さなければならない、というのは、単なる警鐘であり、その鐘の音で『ハッ』と気づかされるだけなのだ。
(そういえば、自分は自分の事をまず第一に考えているんだった。)
自分以上に隣人を愛していると思うのは、単なる勘違いである。
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