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瀬戸内寂聴『人は、人を愛していると思い込み、実は自分自身だけしか愛していない場合が多い。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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ふむ…。

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目次

考察

『愛』という言葉は、本来至極、崇高な概念である。何しろ、とある宗教家に言わせれば、『愛=神』だと言うのだ。私は宗教について散々悩まされて、人一倍葛藤した身だが、その言葉なら、腑に落ちる。それぐらいその図式は信憑性があるのだ。

 

聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。

『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』

 

つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。

 

 

その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。

 

『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけで、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。

 

しかし、そう考えたら『神(聖性)』の様に神々しい、高潔で目が眩む『愛』を捧げている人は、どれぐらいいるだろうか。『自分のやりたいこと』をやっていないだろうか。だとしたらそこには『神(聖性)』は宿らない。向けられている愛情の矛先が自分ということは、『愛』の反対の、エゴ(我、私利私欲)(魔性)である。

 

私がブッダの言葉の超訳として書いた、

ブッダ

 

この記事を見ればわかるが、確かに『愛は与えるもの』で、『恋は奪うもの』であり、(じゃあ与えればいいんでしょう)と思うかもしれないが、実はその判断は思慮浅い。『ある』からといって与えてはいけないということが、この世にはあるのだ。

 

今リンクを貼ったその記事にあるライオネル・リッチーも、養子にしたニコール・リッチーに対する愛情のかけ方を間違えた。『愛は与えるもの』。そうだ。それで間違っていない。だが、その『与え』は、刹那ではないだろうか。『最終的に彼らの自由を奪う結末』に誘導したのなら、そこに『愛』はない。

 

 

 

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