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ヘルマン・ヘッセ『信仰と懐疑とは互いに相応ずる。それは互いに補(おぎな)い合う。懐疑のないところに真の信仰はない。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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ふむ…。

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目次

考察

29年間両親にクリスチャンであることを強要された私が、トラウマ的に毛嫌いし、一時はその親ごと宗教を呪って、死んで消滅すればいい、というほど憎んだ私が、『四聖の言葉』のページをまとめるときに書いたのはこうだ。

私は何も信仰を持たないと決めている人間だが、彼らが『力』に屈することなく命を全うした、『人間の模範』であると尊敬している。だがひょっとすると『真の信仰』とは、こういうニュートラルで純粋な気持ちから生まれた、『敬意』なのかもしれない。

 

私とヘルマン・ヘッセが言っているのは『真の信仰』である。つまり、『信仰』ではないのだ。そういう安易なものではない。容易で、ハードルが低く、思った瞬間にすぐにそこに芽生えているような、そういう軽はずみなものではない。こういう言い回しを理解する為には、テロ行為を行ったカルト教団を想像すればいい。

 

 

しかし、彼らの心にあったのも、れっきとした『信仰』なのである。自分たちが信じるものを、信じていたからやったのだ。しかしそれが『真の信仰』であるわけがないのである。つまりそこには『懐疑』がなかった。懐疑がなければ、まるで無法地帯である。野党がいない政治の様なものだ。与党のやりたい放題となる。与党と野党が存在するから、暴走した政治が行われず、バランスが保たれるのである。

 

彼らカルト教団も、自らに『懐疑』の目を向け、過信しなければ、厳かな視点を持ち、排他的で自分本位な行動を取ることはなかった。私は冒頭に書いた理由から、信仰に対して真正面から向き合う心が整った時、懐疑も懐疑、『全否定』するぐらいの懐疑心を持って、それと向き合った。だからこそ見えたものがあった。

 

それは本質(エッセンス)である。例えばこの『四聖』に数えられる、

 

孔子

孔子

ソクラテス

ソクラテス

ブッダ

ブッダ

キリスト

キリスト

 

彼らをまず懐疑の目で見て、疑ってかかり、そして、自分がこの人生で磨き上げて来た、確かな見識でもって、実に淡々と、冷静沈着に『処理』していくつもりで臨んだ。すると、神格化されている『無神論者にとっては見苦しい部分』を取り除いて、その本質だけを見ることが出来たわけだが、驚くことに、だとするとそこにあったのは、傾聴に値する意見ばかりだったのである。

 

そして私は確信した。私が『違和感』を覚えていたのは、信仰そのものではなく、『人間』だったのだと。

 

フランスの小説家、プレヴォは言った。

 

 

『真の信仰』に値するのは、『偉人が説いた真理』と同じ目線を持った状態であり、『凡人が解釈した宗教』に依存することではない。

 

 

 

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