偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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考察
『あなたは本当にそう思っているんですか?他人によって永遠の幸せが得られるなんて。いくらその他人が最愛の男だったとしても。私は自分の経験から男というものをよく知っています。だって、私もその一人なんですから。男に期待しすぎてはいけません。』
この件に関しては、10数年前に、クリスチャンである母親が私に言った言葉に、大きなヒントがある。

クリスチャンという問題について、極めて抵抗し、騒ぎ切った私のことはさておき、私の両親は仲が良かった。だが、父親の方が50歳になったばかりの頃に死んでしまった。元々、宗教を怨んだ私だが、その時ばかりは、母親に、(宗教で心が支えられるならやればいい)と願った。
今、母親は、かつてと同じように毎日を送っている。もちろん抱えている闇や、失った光はあるだろうが、母は、父に依存していなかったことで、救われたのである。私は『エセ宗教家』が嫌いだ。宗教を援用し、都合の良いように捻じ曲げる人間が嫌い。母親もそのエセ宗教家の一人だ。利用して生きながらえているに過ぎない。もし本当のクリスチャンなら、隣人を愛し、人を侮蔑せず、異宗教間で行われる不和や衝突に果敢に立ち向かい、命を賭して、自分が信じる主への忠誠を見せなければならない。それを見て見ぬフリをするのが宗教なら、私は宗教など絶対にやらない。
だが、人間というものは、恒久的に未熟なのだ。無知で無力で、儚い存在なのだ。そうするしかない。そういうことが人生にはある。宗教とはそういう人々や場所を照らす、一片の光なのである。あくまでも一片の光だ。その男も、女も。永久不変ではない。依存するものではない。援用するものでもない。この人生は最初から『永遠ではない』のだ。有限なのである。それを知った時、見えて来るものがあるだろう。
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