偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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考察
あるところに親子がいた。女子中学生ぐらいの娘と、その親だ。そしてその女子中学生は、街頭インタビューでたまたま父親について意見を求められ、それについてこう答えた。

一緒に居た友人とゲラゲラと笑いながら、父親に対しての不満をぶちまけたのだ。そこで、インタビュアーはついていくことにした。どういう親かどうか、あるいはその問題に一歩踏み込んで手伝えることはないか。するとインタビュアーはそこで、父親とその娘の、本当の顔を知ることになるのだ。
友人がいなくなったところで、彼女の見栄や虚勢は極めて小さくなっていた。そこで彼女は、つぶやくように心の声を話し出した。

彼女は彼女なりに、父親の事を心配していたのだ。彼女がいない場所で、インタビュアーは父親に質問した。


なんと、お酒は娘の見ていないところで、飲んでいるというのだ。そしてこう続けた。


なんという愛に溢れた家族なのだろうか。娘は確かに最初、父親を罵倒している様に思えた。しかし実のところは、心配していたのだ。それは父親も同じだった。見えないところでしっかりと繋がっている。そんな固い『家族の鎖』が、私には見えたのである。
もし、最初の話で(なんて親不孝な娘なんだ!)と思った人は、(きっとわけがあるに違いない。)と思った人よりも、世の中を色眼鏡で見てしまっているのかもしれない。
『君を罵る奴は、自分の心にある君の姿を、つまり自分自身を罵っているにすぎない。』
つまり、『人間』の汚れた部分をたくさん見てきたのだろう。それはそれで、かわいそうなことだ。同情に値する。
だが、人間というものは真っ黒にも真っ白にもなれる。生まれたての赤ん坊が何色にも染まらず無色透明なように、人はもともと純粋純潔だが、この人生を生きて、自分に『偏った色』を塗りたくっていく。しかし文字通りそれは『偏った色』だ。その色が合っているかどうかは定かではない。いや、むしろ往々にして、間違っているだろう。だからこそ人を罵ったのだ。
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