偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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考察
一喜一憂とは、「状況の変化に応じて、喜んだり心配したりすること」。かつて、富士通の現社長は社長就任するとき、相当なプレッシャーだった。内示の後の助走期間に、中国の古典、歴史書、経営指南書など、参考になりそうな本を片っ端から読み漁った。司馬遼太郎の本がいいと聞けば、本屋に走っていって読んだ。100冊近い本を読破して、社長は経営者としてのハラを固めた。
社長は言った。
『本を読み漁ってわかったのは、経営に失敗はないということです。あるのは“一喜一憂”だけ。企業は、経営環境の変化に応じて変化と進化を遂げていく以外にない。経営はその繰り返しなんだ。そう思ったら少し気持ちが軽くなりました。』
まさしく、今回の野中日文の言葉の通りの、胸中なのである。というか、逆に考えた時、『一喜一憂ではない』と言うならば、こういうことになってしまう。
『こんな状況など最初から予知していた。私には未来が見えるのだ。だから別に、この状況になったからといって喜んだり、憂うことはない。何しろ知っていたのだから。』
これでは単なるイカサマ師である。誰にも先のことなどわかるはずもないのだ。見るべきなのは以下の黄金律だ。


もし曲がり角にぶつかったり、窮地に陥ったとしても無意味にふさぎ込む必要はない。人生は最初から一人の人間の思い通りになるようにはできていないのだ。だが、ということは、『思ってもみない良いことも起こり得る』ということなのだから、流れに身を任せる恬淡とした潔さを身につけるべきである。
だが、これらを踏まえたうえで、ある状況に陥った時、さも『願ったり叶ったり』というような言い回しで、ウェルカムの様な態度をして見せ、
という、ナポレオンの様な力強い主体性を見せることは、心強い。見るべきなのは以下の黄金律だ。

こういう、ある種の思い上がりにも似た主体性だけが導き出す結果というものもある。私はその主体性が生み出す奇跡的なエネルギーがとても好きである。
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