偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]日本の作家 夏目漱石(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
『吾人(ごじん)』とは、われわれ、我は、という意味である。ここから考えられることはいろいろあるが、たとえば私が今、すぐに思いついたのは宮崎駿の記事、
これを書いたときに調べた、『高度経済成長期の裏側』の実態である。『進化』と思っていたものが実は『破壊』だった。栄えある高度経済成長の裏には、見て見ぬフリは出来ない闇の一面があったのだ。その一つが、1956年(昭和31年)に起きた、熊本県水俣市での、水俣病の事件である。五木寛之の『大河の一滴』には、こうある。
※当時の行政官の告白…
『自分たちは分かっていた。あの工場が有明海に有毒な汚染物質を流しだしていたことは、当然のように理解していた。けれど、その時点では止めることが出来なかった。なぜかというと、それは当時の日本が飢えていたからだ。食糧増産のためには、農村に科学肥料を送る必要があった。もしもあの時点で汚染を恐れて工場の操業を止めていたならば、日本の復興は二十年ほど遅れていただろう』
このことを考えた時、夏目漱石の言葉はどう響いてくるだろうか。
関連リンク:『我々はつねに自分自身に問わなければならない。もしみんながそうしたら、どんなことになるだろうと。』byサルトル
『吾人は自由を欲して自由を得た。自由を得た結果、不自由を感じて困っている。』
またこの言葉を、以下のような言葉と一緒に考えてみる。
バーナード・ショーはこう言い、
ジェームズ・ディーンはこう言い、
フロイトは言った。
夏目漱石の言葉をここに合わせてみても、彼らの意見はピタリ一致している。自由とは、権利を意味する。だが権利を行使するということは同時に、義務と責務を果たす使命を背負うことも意味するのだ。
例えば車に乗りたくて仕方がない10代の少年がいる。その権利を得るために18歳まで待って、必死に勉強してテストに合格し、免許を得るわけだ。だが、免許を持った彼はたしかに車に乗れるが、それと同時にありとあらゆる道路交通法のルールを守る責務を背負うことになる。人を轢いてもいいか?酒を飲んでもいいか?人としての使命を今まで以上に考えるようになる。
そう考えると、人は自由を得ると同時に、ある種の不自由さを覚えることになる。そこで捻出したのが以下の記事だ。
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ドストエフスキーは言った。
自分がその『苦しみ・悩み・負担』という不自由さから解放されたいのであれば、ある権利を放棄する必要があるのかもしれない。ディオゲネスは、かのアレクサンドロス三世に向かってこう言った。
なんという男だろうか。しかしディオゲネスにとってはそれでよかった。『食欲も性欲のように、自慰行為で収まればいいのに』と言う自由奔放なディオゲネスの生き様を見て、アレクサンドロス大王はこう言った。
[say name=”アレクサンドロス大王” img=”http://www.gravityofdivine.com/wp-content/uploads/2019/07/アレキサンドロス大王.png”]私がアレクサンドロスでなければ、ディオゲネスになりたい。[/say]
ディオゲネスのような生き方はたしかに今の時代、通用しないかもしれない。ただ、かのハンニバル、カエサル、ナポレオンといった歴史上の人物から『大英雄』とみなされ、旧約聖書にも出てくるマケドニアの王、アレクサンドロス大王は、いったいなぜディオゲネスのような生きざまに憧れたのだろうか。
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