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三島由紀夫『無神論も、徹底すれば徹底するほど、唯一神信仰の裏返しにすぎぬ。無気力も、徹底すれば徹底するほど、情熱の裏返しにすぎぬ。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]日本作家 三島由紀夫画像)[/say]

[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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目次

考察

私は無神論者だからよくわかる。私は実に30年間、実の両親からクリスチャンであることを強要された。

 

キリスト教である。

キリスト

 

『嫌だ』と言っているのに、執拗に、来る日も来る日も教会に行くように怒鳴りつけ、辛気臭い声を出して、これ見よがしに祈りを捧げる。これはもう、無神論者からすれば『地獄』だ。精神的虐待だ。しかし、クリスチャン同士なのであれば、心は癒されるだろう。

 

だが、私からすれば地獄だ。何しろ、私の意志などはお構いなしに、イエス・キリストに『様』付けをし、自分の主人となるようにひれ伏せというのだから。

 

 

しかもうちの両親ときたら、『私たちのはキリスト教ではない』などと言うのだから、まあ、自我が発達したばかりの中学生頃の私の自我が人一倍発達し、私が人一倍自由を求め、私が人一倍、信仰や人間について葛藤するようになったことは、想像にた易いはずである。キリスト教が嫌いなのではない。押し付けられる意志を受け入れることが出来ないのだ。

 

何しろそれは、殺人行為に等しいと私は考えていた。意志があるのに、無いように振る舞って、その主を、別に尊敬していない人間に移譲する。こんな屈辱はない。しかし、ではなぜ私はそんなにもそれを拒絶したのだろうか他に気になる宗教があるのか。

 

いや、一切ない。何一つない。他国を見ると、当たり前の様に宗教と人生がシンクロしている。同じ人間なのに、なぜこうも意志の在り方に違いがあるのか。私は自分の人生をこれでもかというくらい迷ったし、葛藤したが、あまりにも複雑すぎる問題で、10代の頃の私では、全く太刀打ちできず、思慮を放棄することで刹那的に難を逃れた。

 

激動の10年が過ぎ、ようやく私の心が整った頃、私はキリストも含めた、

 

孔子

孔子

ソクラテス

ソクラテス

ブッダ

ブッダ

の言葉と向き合い、彼らの教えが何であるかに目を向けた。すると、何と彼らの教えは、極めて真理であり、傾聴に値することを知ったのだ。

 

 

 

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