偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]日本の作家 三島由紀夫(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
『自殺しようとする人間は往々死を不真面目に考へてゐるやうにみられる。否、彼は死を自分の理解しうる幅で割切つてしまふことに熟練するのだ。かかる浅墓さは不真面目とは紙一重の差であらう。しかし紙一重であれ、混同してはならない差別だ。』
まずは一度『自殺』というキーワードから離れる。すると、違う言い方を考えるわけだが、出てくる言葉が、自決、切腹、安楽死、尊厳死、等々、なるほど、確かに極めてもう死が直前まで押し迫ってきているその場面で、人に殺されるか、延命措置を取って、生きてるか死んでるかわからない状態のまま
生きながらえるか、あるいは自分で死に向かっていくか、ということであれば、『自殺』で浮かんできた、ネガティブで物騒なイメージは、少しだけ変わってくる。
例えば、新渡戸稲造の著書、『武士道』は、実にそうそうたる人物と照らし合わせ、その道について追及していて、奥深い。キリスト、アリストテレス、ソクラテス、プラトン、孔子、孟子、ニーチェ、エマーソン、デカルト、織田信長、徳川家康、豊臣秀吉、枚挙に暇がない。本にはこうある。
『武士道においては、名誉の問題とともにある死は、多くの複雑な問題解決の鍵として受け入れられた。大志を抱くサムライにとっては、畳の上で死ぬことはむしろふがいない死であり、望むべき最後とは思われなかった。』
『畳の上で死ぬことはふがいなく、望むべき最後ではなかった。』
こんな発想が常識的にあり、人々には『望むべき死』の形が、今よりも明確な時代があったのだ。『名誉ある死』。そう言うと、『死ぬことに名誉もくそもないんだ!』と言う人がいるが、その人は、自分や自分の家族が寿命で死ぬときも、そう言うつもりなのだろうか。だとしたら、ただただ死に飲み込まれるだけの、人間は、不幸で数奇な、呪われた運命にある生物ということになる。もちろんそれは人間だけではない。
『自殺はいけない』という説があるが、例えば二人がテロリストに拉致されて、人質が次々と処刑される中、いよいよ自分達二人の番が回ってきたとする。その中で、『どちらか一人だけ助けてやる。』という指示がテロリストからあった。その時、
[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]じゃあ、俺を生き残らせてくれ!な![/say]
と言う人間と、
[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png” from=”right”]じゃあ、こいつを生き残らせてくれ!頼む![/say]
と言う人間とでは、どちらが人間として優れているのだろうか。もし、後者と言った人は、彼の自殺志願を肯定したことになる。だが、確かに後者の方が、人としてとても高潔で、価値があるように見えるし、感動を覚えるのではないだろうか。自殺は、原則として、間違っている。だが、その『原則』が捻じ曲がった場合は、その結果も歪曲して違う形になることはあるのかもしれない。
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