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ニーチェ『不当に非難することより不当に称賛してしまうことの方が、良心の呵責を呼び起こす。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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目次

考察

『良心の呵責(かしゃく)』というのは、『良心が痛む』ということだ。不当に非難することより、不当に称賛することのほうが良心が痛む。ということは、不当に称賛することのほうが罪悪感があるということで、罪が重いというイメージが浮かび上がるわけである。

 

しかし、不当な非難も不当な称賛も、同じ同調と追従がその原因にある可能性があり、だとしたら、自分の意志を埋没させ、周囲に同調、追従する人間の弱き姿勢は、往々にして良心の呵責を生むということになるから、別に、非難<称賛、ということにはならないはずである。非難も称賛も、同じように良心の呵責を呼び起こすはずだ。

 

だが、それを考えた上でもあえてそう言うならば、不当に称賛するという事実の方が、良心の呵責を呼び起こす、ということがどういうケースを指しているのか、を考えればいい。前述したような、同調、追従的に、周囲に流されて非難、称賛する、というケースではない可能性がある。つまり、主体的に不当に非難する、不当に称賛する、という選択肢を選んだのだ。

 

それならば、何か意図があって『不当』にそうすることにしたわけだ。そこには、そう判断した人間の『狙い』がある可能性がある。主体的に、不当にそれを歪曲して評価し、自分の思っているシナリオ通りにことを運ぼうとした。そういう時、『非難』だったら、ただ悪口を言ったり愚痴を言えばいいわけだが、『称賛』となると、本当はそうは思っていないのに、表層的にそういうお世辞を言い、例えば相手が子供だった場合、すっかりその気になってしまうことになる。たとえその道が間違っている道だとしても。

 

そっちの方が陰険である。計画性があるからだ。犯罪においても、計画的に行われたか突発的なものか、ということは、裁判の際に、その罪人の罪の重さを測る大きな判断材料となる。罪の重さ的に、不当に非難するのは=突発的であり、不当に称賛するのは=計画的である、という印象があり、こう考えれば、ニーチェの言葉はつじつまが合うようになる。

 

 

 

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