偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/02/レディーアイコン4.png” from=”right”]マケドニアの修道女 マザー・テレサ(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/02/シャーロックホームズアイコン2.png”]ふむ…。[/say]
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考察
彼女が言う愛の言葉とはこうだ。
『話すのは出来る限る少なくしましょう。説教して聞かせても、それは人と触れ合う場にはなりません。だったら、なにをすればいいのでしょう?
ほうきを手に持って、誰かの家を綺麗にしてあげてごらんなさい。そのほうがずっと雄弁なのですから。』
だが、私は首をかしげる部分がいくつかある。まず、『金』の問題だ。私だって、誰かの家を無料で綺麗に掃除してあげたい。だが、それをしている間に、自分の人生はどうする。生活だ。部下や家族。将来の家族。つまり、彼女の言う意見は極めて的を射ているが、しかし同じくらい、非現実的なのである。そこに首をかしげる。
もう一つは『教育』だ。私だって、部下の家を無料で綺麗に掃除してあげたい。だが、そういう私の配慮につけ込んで思い上がり、ろくでなしの人間に育ったのがまぎれもない事実だ。そんな彼には、『無料で掃除してあげること』は、逆効果である。
そういう意味で、今回のマザー・テレサの言葉は見て見ぬフリをしようと思ったが、 『見て見ぬフリ』をしようとするとき、私はいつも『違和感』を覚える。それをして前に進むほど、『前』には重要なものが詰まっているのかと、自問するのだ。
いや、そうではない。『前』にあって咲き誇る花火は、『今』どれだけ『詰める』かによって決まることを悟るのだ。もし花火の玉に火薬を詰める作業を怠れば、いずれ打ち上がる花火の時に悔いを残すのである。
そう考えると私は見て見ぬフリをしていいものなどない。せめて『違和感』を少しでも覚えたものとは向き合って、内省し(詰め)ていかなければ、『前』に起こり得る望ましい結果は、あり得ないだろう。彼女の話に戻るが、そうは言っても、この話はとても有効だ。言うは易く行うは難しだからである。
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