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モンテスキュー『宗教を愛し、守っていくには、それを守らぬ者を憎んだり迫害したりする必要はない。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]フランス哲学者 モンテスキュー画像)[/say]

[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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目次

考察

私は信仰を強要されて育った。キリスト教である。しかし私の両親は、『私たちのはキリスト教ではない。』と言い放つ、自分本位な人間だった。聖書を持って教会に行く。集会という名の日曜学校へ集い、それぞれが交わり、話をする。食事の前には、『愛するイエス様へ。 ─アーメン』というお祈りを必ず行う。

 

それで、どうしてキリスト教徒ではないというのか。まだ15歳にもならない私がそんなことを理解できるわけがないのだ。気づけば、そんな私と両親の間にあったのは、『決して後戻りすることが出来ない深い溝』だった。

 

宗教

 

宗教への強要地獄から抜け出すために家を出ることは日常茶飯事で、時には殺すことも頭をよぎった。

 

(それで解放されるのなら)

 

私はいつの日か両親の死を願うようになっていた。しかし17歳のとき、本当に父親が死んだ。理由は肝臓がんで、その発祥のストレスの原因の一つが、私の根深い非行だったと、葬式に来た人間全員に発表された。パンフレットにそう書かれたのだ。

 

『15年来の信頼する経理担当が心臓発作で死んだことと、次男の根が深い非行に悩み苦しんだ。』

 

と。私はもちろん最後の最後に父親の為に泣いて、悔い改めたが、後になって考えてみると、葬式のパンフレットにあのようなことを書くと、私の後の人生に響いてしまうということについての、思慮はなかったのかと、疑問が残る結果となってしまったのだ。

 

それから更に10年。母親はついに『宗教の強要は悪かった』と、認めた。

 

[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/女性の人物フリーアイコン素材.png”]あの頃の私は、宗教が何であるかよくわからないまま、あなた達に勧めてしまった。[/say]

 

と。会話の中でサラッと言ったことだが、これは私にとってはあまりにも大きな出来事である。

 

20年前、宗教の強要に反発して、私は家を出たのだ。そしてその私の非行の原因を棚に上げて隠蔽し、自分たちだけが悲劇のヒーロー・ヒロインを演じた。そして自分が蒔いた憎悪の種の、悪の華の悪臭と毒素に体を蝕まれ、命を落としたのであれば、それは一体誰の原因だと思うか

 

宗教の強要をしていいことなど一つもない。私は、自分の人生で学んだこの教訓を、声を大にして人に言っていくし、子孫へと繋いでいくつもりだ。宗教の本来の存在理由を、見失ってはならない。

 

宗教

 

 

追記:2017/05/26

この記事からさらに4年が経った。母はこの当時よりは私のことを『正当に評価』出来るようになってきている。しかしそれは全て、100%と言っていいだろう。私の努力のおかげだ。何しろ最初、母は私のことを一方的に『悪い人間』だと決めつけていたのだ。何をしても、何かがあれば、原因は私にあると考えるような、浅薄で無責任な、自分本位な人間だった。

 

だが、私が『最終的には実際に殺す』という気迫をもって話をし続けること4年、母は私の評価を『正当に』出来るようになってきた。母の評価が『正当な評価』に近づいてきているのだ。私の家庭で宗教問題に真正面からぶつかった人間は私しかいない。他は全て、『迎合』するか、『見て見ぬふりをする』か、『さも多様性を意識している』という図式に依存していて、何の根本解決もしようとしていない人間ばかりだ。

 

見て見ぬふり

 

つまり、問題から逃げている。逃げているからこそ、自分たちの人生を先に進めることが出来ているのだ。そういう人間を私は責めることはない。皆、生きるのに必死だからだ。だが、私はそういう人間を尊敬することもない。

 

私は母に、この『葬式の件』について言及した。

『あんなこと書いて、あれはどう責任とるつもりなんだ?なぜあんな風に書いて大勢の人に悲劇のヒーロー・ヒロインは自分たち親側なんだ、と知らしめてしまったんだ?俺は別に他人からどう思われようが関係ないからいいが、お前ら親がやったことは、自分たちは問題ない。問題があったのは俺も含めた周りだった、という自己弁護でしかない。あんなことをやっておいて、俺の『教育者』を語る資格はないよ。』

 

私のことを『正当に評価』し始めることができるようになってきた母にとって、この決定的な事実は重い現実となってのしかかるだろう。何しろ、息子に偏った宗教を強要しておいて、それに逆らったら『反抗期だ』として否定し、意志をもって人生を生きることを心底から応援できなかったのだ。

 

そして、私が反抗したことを受け、

 

[say name=”” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/女性の人物フリーアイコン素材.png”]私たちにも『少しは』責任がある。[/say]

 

という発言をしたのだ。(今からおよそ4年前)そしてそこから10年前、両親は葬式用のパンフレットのようなものに、あのように書いて大勢の人にアピールした。

『自分たち(の信仰)は悪くない。悪かったのは、青天の霹靂だった経理の人間の死と、次男の根の深い非行だ。』

 

と。

 

信仰

 

『正当に評価』できるようになってきた母の見識は、文字通り曇りきっていない。曇り切っていたら正当に評価はできない。曇り、歪んでいた母の目は澄んできている。しかし、だからこそこの過去の事実がどれだけねじ曲がっているかということを、思い知ることになるだろう。

 

『宗教を愛し、守っていくには、それを守らぬ者を憎んだり迫害したりする必要はない。』

 

心底からそれに依存していた両親にとって宗教とは、『奇跡であり神の賜物』ということになるだろう。しかし、私にとって宗教とは、我が家庭を大きく狂わせた、『ウイルス』のようなものだ。『麻薬』と言ってもいい。本人は快楽に酔いしれることができるかもしれないが、周りにいる『シラフ』の人間はたまったものではない。

 

ヤスパースは言った。

 

 

 

 

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