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マルクス『宗教は抑圧された生物の嘆息である。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]プロイセン王国哲学者 マルクス画像)[/say]

[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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目次

考察

マルクスはこうも言った。

 

『嘆息(たんそく)』とは、悲しんだりしてがっかりする、ため息をつくということである。つまりマルクスの言葉をまとめると、宗教は、抑圧された生物が、それに耐えられないが為に、目を逸らそうとした場所にある概念である。その『概念』を『癒しの場・楽園・天国・パラダイス』だとか言ってもいいが、とにかくそれらはすべて、そういう人にしか見えない概念なのである。

 

私にはこれを言う資格がある。私は、実に29年間の間、両親にクリスチャンになることを強要されて育ったのだ。

 

 

それは、今書いたとおり『強要』だった人の心を救うはずの信仰が、人の心を長い間苦しめていたのである。つまり、マルクスの言う通り、両親は抑圧され、宗教に心を向けたのかもしれないが、私は、その両親の宗教によって、心を抑圧され続けて生きてきたのである。

 

だから私はマルクスの二つの言葉の意味がよくわかる。まるで、『麻薬中毒者』かのように、目の前に苦しんでいる人がいるのに関係なく、それを止められないし、人に強要してやらせることで、自分たちのそれを正当化させようとする。『祈りさえすれば救われるのよ。祈らないから救われないのよ。』などと。

 

世の中には、様々な宗教があるのだ。それなのに、どうしてその『キリスト教』一つに絞って、しかも心がそれを求めていないのに、イエスに『様』を付けて、毎日毎日祈らなければならないのか。彼らの目は盲目であり、排他的であり、それはまるで『薬物依存症』そのものである。

 

彼らにも当然、事情はあっただろう。『抑圧』される人の気持ちはよくわかる。子供が死産したり、事故死したり、あるいは最愛の人が死んだり、ギリギリの状況で神に祈りを捧げたら、九死に一生を得たり、彼らが信仰に目を向けようとする気持ちは、とてもよくわかる。それは、抑圧を受けていればいるほど、その気持ちがわかるようになっている。

 

ホイットマンこう言っている。

 

だからよくわかるのだ。何しろ、私も抑圧されて生きて来たからだ。

 

しかし私は『宗教』を持たないと心に決めた人間であり、一度もそっちに目を向けたことは無い。もちろん、それは宗教の強要『抑圧』を受けたことが原因であり、この不動の心を養えたのは、その環境のおかげだから、むしろ今は感謝しているが、しかし、私は『ポジティブ』なのだ。『ネアカ』なのである。『嘆息』などに浸る様な悲劇のヒーローではないのだ。

 

ヴォルテールはこう言い、

 

ヴォルテールはこう言い、

 

マザー・テレサはこう言い、

 

フランスの小説家、プレヴォは言った。

 

 

もちろん私は、『四聖』に数えられる、

 

孔子

孔子

ソクラテス

ソクラテス

ブッダ

ブッダ

キリスト

キリスト

世の偉人たちの言葉と向き合っていて、

偉人

 

決して、彼らの教えを否定しているわけではない。むしろその真逆であり、彼らの教えは、こういう私が見ても、傾聴に値する。私が否定しているのは、『偉人が説いた真理』ではない。『教えを歪曲させた凡人』である。

 

 

 

 

 

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