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ホラティウス『何ごとにも節度を守れ。何ごとにも中央があり、その線が適切のしるしなのだから。こちら側でもあちら側でもまちがいが起こる。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]南イタリア詩人 ホラティウス画像)[/say]

[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察

やり過ぎてもダメだ。やらなさ過ぎてもダメだ。重要なのは、『過ぎ』ではなく、『ほどよく』ということである。

 

孔子の言葉の超訳として書いたのは、

孔子

 

この記事だ。そこに書いた福沢諭吉と尾崎行雄のやりとりは、この話の階層を一つ、深くする。更にそこから階層を深くするためには、

 

ブッダ

ブッダ

 

つまり、釈迦が『ブッダ(悟りを開いた者)』になる為に見極めた、『中道』という極意だ。釈迦は、自らの身分であった王族という事実の関係もあって、29歳までにありとあらゆる快楽を味わった。しかし、そこから35歳までの6年間は、打って変わって、ありとあらゆる苦行を味わうことを決意し、そしてその通りに実行した。しかし、釈迦は『ブッダ』になることは出来なかった。

 

釈迦がブッダになる為に必要だったのが、『中道』を見極める目を持つこと、そして『内観』という、瞑想行為だったのだ。この場合で言えば、快楽を突きつめた場所にいるのは、およそ『人間』には見えない。そして、その反対に苦行を突き詰めたとしても、その延長線上にあるのは『死』である。

 

 

確かに、人間のこの身体なんて、汚れそのものなんだから、生きている間は苦行を強いて、死んだ後の世界に期待する、という考え方もあるが、しかし、いたずらに自ら死に向かうようなことを考えるのは、『人間だけ』なのだ。そう考えると、人間が最も重視したいのは、『自然』である。

 

ほどよく、良い加減で、中道的に、自然に

 

しかし、そんなことを考えているのは人間だけだ。そう考えた時、見えて来る一つの道こそが、真理だ。

 

 

 

 

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