偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

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考察
水は透明ではない。必ず濁っている。何しろ『濁る』という言葉の意味とは、液体や気体に他の物質が混じっている様を言う。だとしたら当然濁っている。清濁があって当然なのがこの世の中である。生物多様性だ。善玉菌と悪玉菌だ。ダイバーシティ(多様性)がある。混在している。それがこの世だ。この世の中だ。
聖書における『ヘブライ人の手紙』には、『父が子供を叱るとき』について、こう書いてある。
『神が自分の聖性を子に与えようとしているのだ』
つまり人間には『聖性と魔性』の両面がある。
その内、父が子を叱った場所には『愛(聖性)』が宿り、『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿っていることになる。だとしたら、見えて来るのは『聖性を優位にし、魔性を劣位にする』ということで、そこにあるのは、魔性と聖性の真剣勝負である。更に言えば、昨今一部の狂信者が世界を騒がせているが、イスラム教における『ジ・ハード(聖戦)』とは、何も人を惨殺することを許可する、という凶悪な概念ではない。
『神の為に奮闘する』ことを意味し、つまり、その『神』というものは、しばしば『愛、真理』と『=』であると考えられるわけで、例えば、『人に裏切られ、殺意を覚えた』というとき、そこに現れるのは間違いなく『魔性の疼き』であるわけだが、しかし、それを聖性の力で劣位にさせよう、という『闘い』こそが、この『ジ・ハード(聖戦)』なのである。
『魔が刺した』人間には『罪(魔性)』が宿るのである。循環型社会だ。例えば植物がなければ、酸素が無くなり、地球の生命はほとんど全滅する。怪訝な顔をして『濁』と決めたということは、自分は『清』であると言ったのと同じだ。だが実際はそんな『濁』に生かされ、命拾いしているのである。つまり調和を乱すような『清濁の判断』は、いささか人間本位である。
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