偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]イングランドの詩人 チョーサー(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
しかし、何を持って『正義』とするかだ。正義とは、正しい義である。義とは、人が歩くべき道筋のことである。そう考えると『慈悲』とは、往々にして正義である。ハーバード大学で最も人気の授業の講師、マイケル・サンデルの著書、『これからの「正義」の話をしよう』では、このテーマについての規範意識を強化することが出来る。
例えば、自分が運転する路面電車のブレーキが壊れ、もう死んでしまうしかないという時、そのまままっすぐ進めば5人の人を巻き添えにし、右にハンドルを切れば、そこには1人だけの人間が居て、では、自分は一体どういう選択肢を取れば良いのか。こういう時の判断力について、磨かれることになるだろう。
しかし、答えは明言されていない。ではこの場合の『正義』とは?あるいは『慈悲』とは?その答えはここでも明言しない方が良いだろう。
マキャベリは言った。
チョーサーとマキャベリでは、言っていることがまるっきり違う。まずチョーサーは、『慈悲=正義ではない』と言っているが、マキャベリは『慈悲=正義である』と言っている。
そのうえで、
『だが、慈悲たる正義を重んじて、国家に秩序が生まれないのであれば、私は不正義を用い、民衆から無慈悲だと思われても、秩序ある国家に重きを置くだろう。』
と説いているのだ。事実、マキャベリは『君主論』でこう言っている。
『慈悲深い君主と酷薄な君主では、どちらが良い君主かという問題だが、思いやりにあふれ残酷なこところがまったくないという人物ほど、望ましい君主像はないというのは当たり前である。(中略)君主たる者、酷薄だという悪評を立てられても気にする必要はない。歴史は、思いやりに満ちた人物よりも、酷薄と評判だった人々の方が、どれほど民衆を団結させ、彼らの信頼を獲得し、秩序を確立したかを示してくれている。』
だが、チョーサーはこう言うわけだ。
『慈悲は正義にまさる。』
ということは、チョーサーはまずマキャベリの言うように、『慈悲=正義ではない』ということがあるわけだから、
『マキャベリ君、君はそれを正義だと思っているだろう。いや、その秩序を守るためには多少の不正義があることは、必要悪である。という考えの方だ。それが正義だと思っているだろう。各々の立場によって正義の捉え方は違う。ある対立したグループがあったとき、一方に意見を聞いたらたしかに一理ある信条を抱えていて、もう一方に意見を聞いたら、こちらも確かに一理ある主張をしている。だが、ここに『慈悲』の心、つまり相手の心中を察する思いやりの心が加われば、そもそも『対立』などするだろうか。それゆえ、慈悲は(各々が掲げる)正義に勝るのだ。』
と言いたいのだと解釈すれば、この問題は解決することになる。つまりこういうことだ。
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