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アシュリー・モンタギュー『人間が被っている最大の敗北は、なれたかもしれない存在と実際になった存在の間の相違で構成されている。』

偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け

[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]イギリス学者 アシュリー・モンタギュー[/say]

[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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目次

考察

人間が人生の黄昏時を迎え、死の床に着くとき、振り返って後悔するのは『負ってきたリスク』ではない。避けてきたリスク、掴まなかったチャンス、立ち向かなかった恐怖である。

 

更なる詳細は、フランクリン・ルーズベルト元大統領の言葉、

 

この記事に書いた。そう考えると、もうモンタギューの言葉の意味が見えて来る。図でイメージすればこうだ。

 

 

 

左が『なれたかもしれない自分』で、右が『実際になった自分』である。つまり、左がどんな分野なのかはわからないが、とにかく突出していて、黄昏時を迎えるとき、後悔するのは、『右との差』なのである。『悔いの無い人生』を生きるためには、前述した人生のテーマに、立ち向かう勇気を燃やすことが極めて重要なのだ。私もこのことを強く自分に言い聞かせ、余生を余すことなく生き貫く覚悟だ。

 

『四聖』に数えられる、

 

 

孔子

孔子

ソクラテス

ソクラテス

ブッダ

ブッダ

キリスト

キリスト

 

は、大金を持つことなく死んでいった。中には無念の中死んだ者もいるかもしれないが、考えられているのは、彼らは『命を使い切った』という説だ。33歳で亡くなったキリスト以外は、70年以上人生を生きている。2,500年前の時代にそれだけの間人生を生きれば、彼らは人生を十分に生きたと言えるだろう。ソクラテスは毒杯を飲んで死ぬことになるが、それも自分で選んだ道だった。

 

ソクラテスは最後にこう言った。

『お別れのときが来た。君たちは生きながらえるため、私は死ぬために別れるのだ。君たちと私のどちらがより幸福なのだろうか?答えることが出来るのは神のみである。』(『弁明』42A)

 

どちらにせよ必ず終わるこの人生の中で、彼はそれ以上生に執着することは罪であると考えたのだ。いつ死ぬかわからないこの人生。そしてもし予定外のタイミングで市が訪れたとしても、それは最初から決まっていたことだったはずだ。『それ』を本当に理解している人なら、そもそもアシュリー・モンタギューの言う『なれたかもしれない存在』という概念への執着は、ないのかもしれない。

 

Twitter上の考察意見

 

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