偉人たちの言葉に潜む『黄金律』を見抜け
[say name=”偉人” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/人物アイコン.png”]スペインの画家 ダリ(画像)[/say]
[say name=”運営者” img=”https://a-inquiry.com/health/wp-content/uploads/2019/03/シャーロックホームズアイコン1.png” from=”right”]ふむ…。[/say]
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考察
人は、枯渇したゲージを埋めるために躍起になる。もう一言、この一行に全てが詰まっている。この一行で理解がすぐに出来ない人、あるいは衝撃的なインスピレーションが湧きおこらない人は、想像力の手助けとして、こんなゲージを見るといい。
自分が『右のメーター』だと思っている人は、『枯渇』している。潤沢なのは、『左のメーター』の人だ。潤っている。満たされていて、とても充足している。そういう人の心は温和であり、安穏としている。何かを欲する為に、少なくとも『このメーター』の要素を満たすために、躍起になって我を見失うことは無い。しかし、自分が『右のメーター』だと思い込んでいる人は、ある種、ダリの言うように『呪い』にかかっている。どこまで追求しても、(まだ足りない、まだ足りない)と、それを欲し続ける。
私も実におよそ30年間、親からクリスチャンになることを強要されて育った。
私はいつも、窮屈だった。束縛を感じていて、とても心が苦しい日々を強いられていた。それを求める親に、『愛がある』という事実も、余計に苦しめていた。悪気はないのだ。しかし、私はクリスチャンではないのである。だから私は自由を欲する人間になった。強く、強く、それを求める人間になった。つまり、ダリのこの言葉の意味が手に取るようにわかるのである。
私は『社交辞令』も、あらゆる『冠婚葬祭、及びその儀式』も、何となく、という理由で、みんながやっているから、という理由で、その行為に至ることは、絶対にない、という考え方になった。その根底にあるものは、ダリの言う通りのことだ。たった一度のこの人生。どうせ死ぬのだ。束縛はそれだけで十分だろう。後は私の好きなように生きるつもりだ。
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